久留米大学特任教授 古賀幸久 の考える、これからの生き方論。
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清貧に生きる社会

#24 2020年2月26日


 モノに満たされた社会においては、人々の生き方として一般的に望ましいことは、趣味や興味を広く深くし、高い質を求めること、また、そのための勉強や仕事をする積極的な志があること、そして、清貧に生活することです。

「生存の願望」「節度」「清貧さ」の一体性

 人の欲求は限りなく広がり、深くなります。もし、その欲求が際限ない「利己的な欲求」であれば、社会的な混乱を生み、そして自然を破壊します。その一方で、人は社会と自然から護られていることを本能的に自覚しています。人の限りない欲求には安定的に生き続けたいと願う「生存願望」もあり、その「生存」を持続させるためにも、「利己的な欲求」に自らの意思で一定の制限を持たせようとする合理的な「節度」も伴います。人間の欲求は、利己的であり、かつ、自制的です。「生存」が持続できるような社会的循環や自然との共生を望むのであれば、自らの意思で「利己的な欲求」に一定の「節度」を持たせるようにするしかありません。その「生存願望」の思いと「節度」ある行動は豊かな「循環社会」と「自然共生」を通して生かされていくための必要な条件であり、それが「清貧」に生きることにつながります。
 ここで言葉の定義として注意しておくべきことは、「清貧さ」とは単なる「貧弱さ」ではないということです。単なる「貧弱さ」は、モノに満たされている割には「利己的な欲求」が旺盛である反面、「生存」を持続させるための「節度」の希薄さが目立ちます。モノを欲する強さと比べ、生存の質的な豊かさを求める意識が薄く、夢や思いを実現させようと願う思いも強くありません。このような節度の希薄さ、意識の薄さ、願いの弱さにおいての「貧弱さ」は社会的課題や安定的な社会的循環に資する効果もなく、自然との調和を生むものではありません。これに対して、「清貧さ」はそれと真逆です。モノに満たされていてもいなくとも「利己的な欲求」は弱く、「節度」が伴います。モノやサービスへの節度があり、生存の質的な豊かさを求める意識が高く、そして、夢や思いを実現させようとする意識が強く行動も伴います。そのため、「清貧さ」は様々な社会的な課題に対応し、安定的な社会循環に資する効果を持つためにも自然との豊かな共生を図ろうとします。

「清貧さ」とは

 「清貧さ」とは、質の高い生き方を実践していくことです。それは、生きていく生命感と幸福感を高める自律性のあるものです。また、積極的に人や社会と関わって、周りからも共感され、讃えられる社会的な関係性の深いものです。モノは清楚でも社会の安定と安心を継続できるだけの資質を備え、温かい心を軸に社会を循環させることのできるものです。「清貧さ」は、趣味・興味などを楽しんで日常生活を豊かに送ることができる場を作り、好きで大切なものを持ち続けて深く広く追及し、掘り下げていくことができる時空を創造します。
 そのような「清貧さ」は外部からの圧力によって強いられるものではありません。自然の恩恵に浴しながら自然の中に身を委ねて、感謝しながら、他人や社会と温かく心をつないで生きることを通して生まれます。

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