自然に学ぶとは
#33 2025年5月15日
「教養」の意味について述べた先のブログで、人の「感性」には「自然的感性」と「認識的感性」があるということ、そして「自然に触れながら感謝して生きる」ことの大事さについて言及しました。今回はこの意味を更に考えてみます。
人は逆境に直面し、恐怖が支配する精神的・肉体的な過酷さに苛まれるときに、普段は全く予期せぬような善悪を超越した自分に出会う場合があります。それは生存の危機を避けるための本能的な行動の場合もあれば、その場の必要性からなんの躊躇や疑問もなく振舞う場合もあります。
植物や動物をはじめに、自然界には多様な生き物がいます。その中で人間は他の生物と大きく異なり、自ら「こうありたい」と思い行動するとき、人間として自然の「あるがまま」の状態とは大きく乖離しています。人は「生かされている自分」の母体に無意識のうちに依存しながら、「こうありたい」と願う「欲求」の世界で日々息づいて暮らし、喜怒哀楽と混沌の世界を甘受しながら生きています。
現代において、科学的な感性や経済的な合理性を志向する科学万能主義の傾向が強くなっています。そして、「こうありたい」と希求する欲求が、科学や経済的な合理性への信仰で満たされようとしています。もしこのような傾向が今後も続いていけば、科学や合理性の名のもとに、「生かされている」「あるがまま」の自分そのものを消滅させる自己破壊的な危機が訪れることが危惧されます。人も自然の一部として多様な命と共存・依存し合う「生かされている」「あるがまま」の命であるならば、自ら、その命の基盤自体を、人の欲求の強さによって回復・修復できないほど傷つけ破壊する恐れがあるからです。「こうありたい」と願う自分が自分を生かしているということを認識すれば、「こうありたい」願いは「あるがまま」の自然を尊重し、折り合いをつけながら一体化して生きていくことが必然となります。自分を大切にするということはそのようなことです。それはまた、他の命や社会を大切にするということに他なりません。
このように、自分の大事な命や健康、そして社会の大切なものを守るために、科学的・経済的な面においても、人は常に謙虚に反省をし、寛容で豊かな温かい心で生きる心構えを常に準備し、実践しなければなりません。そしてそのためにも、私たちは自然や社会に絶えず触れることによって、人や社会の喜びや痛みの喜怒哀楽を自分の問題として捉えていくことが大事なのです。「自然に学ぶ」とはそういうことです。
「自然に触れながら感謝して生きる」こととは、自然の「あるがまま」の自分の命の母体に感謝しながら、そのうえで、「こうありたい」と願う謙虚な心と知恵を学び、いつも楽しく明るく生きることに他なりません。
人間の自然性
一般に私たち人間は、他の生物と比較して社会的な道理や理性や合理性、そして科学的知性などが高いと思っています。しかし、それにも拘わらず、人間は自ら創造した武器を利用し、他の生物よりも極めて無意味と思われる人間同士の大量殺戮を行ってきたのみならず、多くの生命の生きる大事な環境や生態系をも壊してきました。ここまでの破壊行為を行うのは、人間以外の生物の世界では一般に見られない現象ではないでしょうか。人は逆境に直面し、恐怖が支配する精神的・肉体的な過酷さに苛まれるときに、普段は全く予期せぬような善悪を超越した自分に出会う場合があります。それは生存の危機を避けるための本能的な行動の場合もあれば、その場の必要性からなんの躊躇や疑問もなく振舞う場合もあります。
「あるがまま」の自分、「こうありたい」と思う自分
自然に生かされている「あるがまま」の自分は、人知を超越した自然状態です。私たちの生死は私たちの意思で決定されてはいません。人は誰しも、その人の意識や作為性を超越した自然の命としての「あるがまま」の状態と、「こうありたい」という自己の意識や作為性から生まれる面を一体として持ち合わせています。無作為の「あるがまま」の自分を母体としながら、作為的に「こうありたい」と願う欲求も創造されます。植物や動物をはじめに、自然界には多様な生き物がいます。その中で人間は他の生物と大きく異なり、自ら「こうありたい」と思い行動するとき、人間として自然の「あるがまま」の状態とは大きく乖離しています。人は「生かされている自分」の母体に無意識のうちに依存しながら、「こうありたい」と願う「欲求」の世界で日々息づいて暮らし、喜怒哀楽と混沌の世界を甘受しながら生きています。
ふたつの自分の折り合い 〜自然や社会に絶えず触れる〜
「あるがまま」つまり「生かされている自分」というものを換言すれば、それは「多様な命が共存し、互いにつながり依存しあう循環の中で、生かされているひとつの命として存在する自分」ということです。人の「こうありたい」という欲求や希望通りにはいかない無作為の世界です。現代において、科学的な感性や経済的な合理性を志向する科学万能主義の傾向が強くなっています。そして、「こうありたい」と希求する欲求が、科学や経済的な合理性への信仰で満たされようとしています。もしこのような傾向が今後も続いていけば、科学や合理性の名のもとに、「生かされている」「あるがまま」の自分そのものを消滅させる自己破壊的な危機が訪れることが危惧されます。人も自然の一部として多様な命と共存・依存し合う「生かされている」「あるがまま」の命であるならば、自ら、その命の基盤自体を、人の欲求の強さによって回復・修復できないほど傷つけ破壊する恐れがあるからです。「こうありたい」と願う自分が自分を生かしているということを認識すれば、「こうありたい」願いは「あるがまま」の自然を尊重し、折り合いをつけながら一体化して生きていくことが必然となります。自分を大切にするということはそのようなことです。それはまた、他の命や社会を大切にするということに他なりません。
このように、自分の大事な命や健康、そして社会の大切なものを守るために、科学的・経済的な面においても、人は常に謙虚に反省をし、寛容で豊かな温かい心で生きる心構えを常に準備し、実践しなければなりません。そしてそのためにも、私たちは自然や社会に絶えず触れることによって、人や社会の喜びや痛みの喜怒哀楽を自分の問題として捉えていくことが大事なのです。「自然に学ぶ」とはそういうことです。
「自然に触れながら感謝して生きる」こととは、自然の「あるがまま」の自分の命の母体に感謝しながら、そのうえで、「こうありたい」と願う謙虚な心と知恵を学び、いつも楽しく明るく生きることに他なりません。